「朝顔」が咲く風景
むー。確かに朝顔の花っぽいかも^^
こちらは道路のお向かい、Aブロック。
A・Bブロック間の連絡通路となる橋の架設が始まっていますね。
ところで。
うめきた土地財源で橋下氏「関電株売却は有力」 cache YOMIURI ONLINE
橋下市長:関電株売却を検討 うめきた緑化資金に cache 毎日.jp
市が所有する関西電力株の一部を売却して、梅北2期の土地購入の財源にあてるかもというニュースがありましたね。今の時期に安く売っちゃうのでいいのか?別の意図があっての作戦か?^^;
Comments
一期工事は順調で、オープンも予定通りであることを祈りたい。
一期成功の成否が二期を決めるので重要である。
引き続き二期について完成時期を前倒しするように大阪市が早く動くことを期待する。ただ中心となる上村氏や橋詰氏には大阪全体の都市改造のビジョンはなく、拠点ごとの開発で期待はずれ。
二期の緑地化に高額の金を使うのなら、ビジネス需要の高い梅田は民間開発に任せ、停滞してインフラの悪い本町を良質の職住近接の都心居住地区への転換に取り組むため、市として御堂筋の歩道拡大や緑地化、本町・船場地区の道路の拡幅と緑地化、一ha程度の公園を何箇所か設置するほうがよっほど良いと思うが。
関電を脅しているだけだと思います。
北梅田2期の理由を付ければそれなりに聞こえるので
言ってみただけでしょう。
大商人が住み、そして商売をし、伝統行事を慎ましやかに行ってきた。
※参考資料
船場料理の12ヶ月
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/
古くから伝わる伝統を大事に守りつつも商売に勤しんでいたのが船場だったのです。
それが一気に壊れる悲劇が船場に訪れます。
そう、大東亜戦争、あの大阪大空襲の惨劇です。
数次に渡る空襲で船場は壊滅。そこに住んでいた伝統を守り商売をしていた船場に昔から代々住んできた人たちは、北摂や阪神間に移り住みました。
ある意味、抜け殻となった船場には、戦後の復興を急ぐ時代からの要請もあり、住機能よりもオフィス機能が重点的に整備されていったのです。
今、日本の伝統を守っているイメージがあるのは京都ですが、もし船場が戦災に合わなかったら、それは船場・大阪のイメージだったのかもしれません。
そして大阪の中心を失った事が大阪の低迷の一つの原因になっているのかもしれません。
船場をもう一度『人が住み、働く場所』にする事は、実は大阪復権の鍵となるのではないでしょうか。
人間は強靭な心臓があればこそ生きていけます。
船場が大阪の中心であると考えれば、今の船場・心臓は残念ながら強靭とは言えません。
船場を職住接近のスタイル、即ち昔のスタイルに戻すことは、大阪が強靭な心臓を取り戻す事になるのだと私は考えています。
橋下市長は本気で関電株の売却を考えていると思いますが、
市長1人の一存では決めれなく周りが反対してる現状がある
と思います。橋下市長は関電株売却資金で梅北2期の緑地化の資金にしたいと本気で考えていると思います。
考え方次第では資産の置き換えであって
大阪梅田の価値が上がれば土地売却も可能でしょう
いわゆる阪神間モダニズムによって阪神・国鉄・阪急の神戸線沿線に住宅地が発達し、また近鉄はいわゆる学園前、南海は帝塚山の開発に乗り出していました。
故に、船場から人口の流出は、戦前からの流れであり、戦災が郊外への転居を加速させたとはいえ、遅かれ早かれ船場が居住スペースとして衰退するのはほぼ確実ななりゆきでした。
なぜ船場は居住スペースとしては衰退しなければならなかったのか?
「如何なる土地を選ぶべきか」、「如何なる家屋に住むべきか」「美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!」
これは、阪急の総帥、小林一三が1910年に池田での宅地開発の宣伝パンフレットの文章です。
戦前の、この時点で東洋のマンチェスターである大阪中心部は工業都市でした。居住スペースの狭さと煙による大気汚染、そして、住宅地としては、森林・公園が少ないという致命的な弱点を抱えていました。郊外へ路線を延ばした各私鉄会社は、郊外の田園都市としての生活をしきりに宣伝し、そのために大阪市内に住んでいた事業家も大部分は郊外に移転してしまいました。
(例えば阪急の小林一三は池田・朝日新聞の社主は神戸の住吉)
現在、タワーマンションが何本が都市中心部で建築されていますが、これだけでは足りないと思わざるを得ません。やはり公園の整備と他に大阪の文化スペースの拡充は必須だと思います。
になる可能性があります。
関西での住宅地最高価格帯は芦屋ではなく、天王寺区真法院町。
官民総出で思い切った再開発を期待したいと思います。
以前訪ねたことがありますが、歴史を感じる緑豊かな落ち着いた街
でした。
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-699.html#view_comment
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120311/20120311040.html
ああいう場所は再開発しないからこその魅力だと思います。
芦屋に高層ビルが建っても嫌でしょう。
F.Nakajima 様
F.Nakajima 様のご意見も正しいですが、船場には戦前6万人が住んでおり、山崎豊子が書いているように大阪商人としては住んでみたい一級の地で、大阪の中心であり、経済・文化を担い、オピニオンリーダーでした。今は増えたといっても何千人で、本町・船場をもう一度大阪の中心地とすることに賛成です。
そのためには若手建築家グループの提言の都市改造、梅北は大ビジネス地区にして、そちらに移転した跡に公園や道路の拡幅・緑地化、高質住宅を建てることです。伊藤忠に続き、丸紅も移転ですから、民間はその方向で動いていますが、大阪市は拠点開発で都市改造の発想はなく、梅北は公園にするというお粗末さです。
F.Nakajima 様ちなみに戦前の大阪は臨海部の煙の都の一面、都心部は水路が張り巡らされ、船場の商家は大きく、ゆつたりして日本一美しい街と称されていたと橋爪節也の本に書いています。
特に橋が四つと水路に囲まれた四ツ橋の景観や大ビルディングの立つ中の島周辺はは素晴らしいです。今に残る大丸本館、高島屋、松竹座、なくなった阪急のコンコースを想いうかべてもいかに大阪はモダン都市だったかです。阪急の小林一三は極端に書いたのです。
なにせ当時の資本家は家を二・三軒持つのは普通で、藤田男爵などは大阪本邸だけでなく、須磨に別邸を持ち、大阪に車で通っていたし、野村証券創業者も大阪本宅の他に阪神間と京都に別邸を持っていた。松下も同じ。必ずしも住宅地として大阪は適さなかったのではないが、戦争で一変したのであろう。そして車社会になり、立ち退きで道路拡張するのでなく、水路を埋めて道路を作り、景観を悪くした大阪はごみごみした船場となった推認します。
F.Nakajima 様
F.Nakajima 様のご意見も正しいですが、船場には戦前6万人が住んでおり、山崎豊子が書いているように大阪商人としては住んでみたい一級の地で、大阪の中心であり、経済・文化を担い、オピニオンリーダーでした。今は増えたといっても何千人で、本町・船場をもう一度大阪の中心地とすることに賛成です。
そのためには若手建築家グループの提言の都市改造、梅北は大ビジネス地区にして、そちらに移転した跡に公園や道路の拡幅・緑地化、高質住宅を建てることです。伊藤忠に続き、丸紅も移転ですから、民間はその方向で動いていますが、大阪市は拠点開発で都市改造の発想はなく、梅北は公園にするというお粗末さです。
F.Nakajima 様ちなみに戦前の大阪は臨海部の煙の都の一面、都心部は水路が張り巡らされ、船場の商家は大きく、ゆつたりして日本一美しい街と称されていたと橋爪節也の本に書いています。
特に橋が四つと水路に囲まれた四ツ橋の景観や大ビルディングの立つ中の島周辺はは素晴らしいです。今に残る大丸本館、高島屋、松竹座、なくなった阪急のコンコースを想いうかべてもいかに大阪はモダン都市だったかです。阪急の小林一三は極端に書いたのです。
なにせ当時の資本家は家を二・三軒持つのは普通で、藤田男爵などは大阪本邸だけでなく、須磨に別邸を持ち、大阪に車で通っていたし、野村証券創業者も大阪本宅の他に阪神間と京都に別邸を持っていた。松下も同じ。必ずしも住宅地として大阪は適さなかったのではないが、戦争で一変したのであろう。そして車社会になり、立ち退きで道路拡張するのでなく、水路を埋めて道路を作り、景観を悪くした大阪はごみごみした船場となったと推認します。
水路を埋めた事は間違い。大阪の自殺行為。
水路を生かす街つくりこそ大阪が躍進する鍵に思う。
、
何せ、相撲で言うタニマチはあの谷町地区に住んでいた羽振り
の良い旦那衆を指す様ですから。
一戸立てもいいのですが、低層の集合住宅としても、緑豊かな
あの風情と調和できるのではと期待しております。
この大阪淀屋様が書かれた事は、私が上記に貼った記事の写真からも分かります。もう一度アドレスを貼ります。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120311/20120311040.html
またこの美しい船場の街に住む人たちが、非常に優雅で素晴らしい生活を過ごしていた事も事実です。もう一度アドレスを貼ります
船場料理の12ヶ月
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/
素晴らしい街に素晴らしい生活。そして日本経済の要でもあった船場。ある意味、船場とは理想的な街とも言えたのかもしれません。船場がかつてのまま残っていたら、間違いなく日本の伝統を残す街は大阪・船場であるとなっていたでしょう。
しかし、大東亜戦争時の数次に渡る空襲で、美しい街並みも素晴らしい生活も、皆、灰燼に帰してしまった。
地上で凄惨な戦闘が行われた沖縄や原爆の惨劇に見舞われた広島・長崎を除けば、あの戦争で日本国内で一番手酷い大打撃(死傷者とか全半壊家屋といった数字には表れない打撃・被害)を受けたのは、実は大阪ではないでしょうか。
何しろ街の中心部・心臓部が壊滅してしまったのですから。
空襲の被害で言えば、下町が壊滅した東京大空襲が全国的に知られていますが、山の手の被害は下町に比べればそれほどでもなく、東京の下町は東京の中心部・心臓部でありませんでした。
あの戦争が終わって、今年で六十七年。
実は、大阪・船場の本当の意味での復興は成っていないのではないか、と私は思っています。
私の母方の祖父は、奈良に生まれ、小学校を出ると、かりんとなどをつくるお菓子屋に丁稚奉公に出ました。その後二十五に独立し、上本町にて町工場でかりんとをつくる生業をしておりました、が商売は振るわず、私の母は親の手伝いで高校卒業後、朝から晩まで働いても暮らせるかどうか、かつかつだったと申しておりました。
船場で、非常に優雅で素晴らしい生活ができたのは、大店の当主とその家族に過ぎません。祖父に聞いた、丁稚奉公の悲惨さ大変さは、今の派遣社員かそれ以下でしょう。丁稚をこき使う文化が最後まで残っていたのが船場でした。
私の父方の祖父は、戦前、学校の教師をしておりましたが、商売をしていた従兄弟に誘われてその店に入り、朝鮮戦争のときに独立して、幾許かの財を得ました。今の私は祖父の遺した遺産で食っているようなものです。
祖父は戦前、阪急芦屋川駅を少し登った家に住んでいました。その後、独立して会社を興す際の資金のためにその家は売り、祖父一家は大阪市内に住むことになりましたが、その家は未だに建っているのを確認することが出来ます。
それら、芦屋・西宮・池田・花屋敷などの郊外住宅地とその場所における文化こそ、いわゆる「阪神間モダニズム」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E9%96%93%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
皆さんの言っている、本町・船場の復興というのはいわゆる「近代化」以前、明治維新前の文化が残っていた船場・本町の復興ということでしょうか?
それは、不可能だといわざるをえません。
確かに船場の商家での丁稚奉公は大変だったのです。
しかし、その苦労を乗り越えた人々は、やはり優秀であり、多くの人々が日本経済を支える人材となったのも事実なのです。
船場料理の12ヶ月
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/
この資料にもありますが、確かに大旦那などは食事の際に品数も多く、丁稚奉公をしている人は御飯と漬物、しかし夕飯では栄養価のあるおかずが出るなど、まったく配慮が無いわけではなかったのも事実です。
ですから丁稚奉公をしていた人たちとその御家族から見たら船場なんて、と思われるかもしれませんが、それとは違う視点もある事は御理解頂きたいところですね。
阪神間モダニズムは十分理解しておりますが、阪神間モダニズムを支えた大阪側の人々の多くは、やはり船場に関係のある人たちであり、http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120311/20120311040.htmlの写真にあるように、船場の街並みは美しく、その船場での生活と街並みで磨かれた美意識が、阪神間モダニズムの精神の大きな柱になっている事は疑いようもありません。
船場の復興とは、船場というエリアを「職住接近」で「ハイセンスで美しい街並み」で「高感度な人々が集う」、そういう街にしようという事です。
なにも丁稚奉公制度を復活させよう、という事ではありません。
かつての船場のよろしくないものは排除し、良い物を凝縮したような街にする。かつて丁稚奉公で苦労した人々が、生まれ変わった船場を見て、船場に持っていた悪い印象を変えてくれるような、そんな街にしたい。
これを実現させるには、ここ二・三年などという短期間で出来る事では到底ありません。
大阪淀屋様が書かれていますように、まずは梅田を一大ビジネス地点にしなければいけません(私としては、難波と天王寺/阿部野橋もビジネス拠点として更に整備すべきと考えています。あべのハルカスは、その第一歩ではないでしょうか)。
五十年後、百年後、いや千年後を見据えて考えた時に、やはり船場は「職住接近」で「ハイセンスで美しい街並み」で「高感度な人々が集う」という街でなければならないと私は確信しています。
もちろん古いものを取り入れても良いのですが、かつての船場の商人たちが新しい文化を産み、そして支えていたように、これからの新しい船場もまた、新しい文化を生み、そして支えるような街を目指す。
そしてそこから巣立った人が、新たに移った場所で、かつての阪神間モダニズムのような、新しいものを生み出すようになればいい。
船場とは大阪の中心部・心臓部。
そこを新しくして、より強くすることで、新しい文化を産み・育て力強く世に送り出す、それこそ心臓から血が力強く送り出されるように。
そういう船場を、新しい船場を目指したいものです。
http://www.city.osaka.lg.jp/toshiseidokaikakushitsu/cmsfiles/contents/0000165/165919/14shiryou1e.pdf
2012.7.22 13:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120722/wlf12072213000012-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120722/wlf12072213000012-n2.htm
天神祭のごちそうに欠かせないのはハモ、タコ、きくらげ入りの白天。「大阪でも年中行事は仕出料理。店員さんも同じもん食べました。大阪はケチやといわれますが、やるときはやりますよ」