[2] 「朝顔」が咲く風景

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F.Nakajima
2012/07/15 10:32 PM
少し、歴史的なお話を。
私の母方の祖父は、奈良に生まれ、小学校を出ると、かりんとなどをつくるお菓子屋に丁稚奉公に出ました。その後二十五に独立し、上本町にて町工場でかりんとをつくる生業をしておりました、が商売は振るわず、私の母は親の手伝いで高校卒業後、朝から晩まで働いても暮らせるかどうか、かつかつだったと申しておりました。

船場で、非常に優雅で素晴らしい生活ができたのは、大店の当主とその家族に過ぎません。祖父に聞いた、丁稚奉公の悲惨さ大変さは、今の派遣社員かそれ以下でしょう。丁稚をこき使う文化が最後まで残っていたのが船場でした。
F.Nakajima
2012/07/15 11:49 PM
もう少し続けましょう。
私の父方の祖父は、戦前、学校の教師をしておりましたが、商売をしていた従兄弟に誘われてその店に入り、朝鮮戦争のときに独立して、幾許かの財を得ました。今の私は祖父の遺した遺産で食っているようなものです。

祖父は戦前、阪急芦屋川駅を少し登った家に住んでいました。その後、独立して会社を興す際の資金のためにその家は売り、祖父一家は大阪市内に住むことになりましたが、その家は未だに建っているのを確認することが出来ます。

それら、芦屋・西宮・池田・花屋敷などの郊外住宅地とその場所における文化こそ、いわゆる「阪神間モダニズム」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E9%96%93%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

皆さんの言っている、本町・船場の復興というのはいわゆる「近代化」以前、明治維新前の文化が残っていた船場・本町の復興ということでしょうか?
それは、不可能だといわざるをえません。
本町・船場をもう一度『大阪の中心地』にしよう
2012/07/16 09:50 AM
松下幸之助さんも丁稚奉公時代は大変な苦労をされていましたね。
確かに船場の商家での丁稚奉公は大変だったのです。
しかし、その苦労を乗り越えた人々は、やはり優秀であり、多くの人々が日本経済を支える人材となったのも事実なのです。

船場料理の12ヶ月
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/

この資料にもありますが、確かに大旦那などは食事の際に品数も多く、丁稚奉公をしている人は御飯と漬物、しかし夕飯では栄養価のあるおかずが出るなど、まったく配慮が無いわけではなかったのも事実です。

ですから丁稚奉公をしていた人たちとその御家族から見たら船場なんて、と思われるかもしれませんが、それとは違う視点もある事は御理解頂きたいところですね。

阪神間モダニズムは十分理解しておりますが、阪神間モダニズムを支えた大阪側の人々の多くは、やはり船場に関係のある人たちであり、http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120311/20120311040.htmlの写真にあるように、船場の街並みは美しく、その船場での生活と街並みで磨かれた美意識が、阪神間モダニズムの精神の大きな柱になっている事は疑いようもありません。

船場の復興とは、船場というエリアを「職住接近」で「ハイセンスで美しい街並み」で「高感度な人々が集う」、そういう街にしようという事です。
なにも丁稚奉公制度を復活させよう、という事ではありません。
かつての船場のよろしくないものは排除し、良い物を凝縮したような街にする。かつて丁稚奉公で苦労した人々が、生まれ変わった船場を見て、船場に持っていた悪い印象を変えてくれるような、そんな街にしたい。

これを実現させるには、ここ二・三年などという短期間で出来る事では到底ありません。
大阪淀屋様が書かれていますように、まずは梅田を一大ビジネス地点にしなければいけません(私としては、難波と天王寺/阿部野橋もビジネス拠点として更に整備すべきと考えています。あべのハルカスは、その第一歩ではないでしょうか)。

五十年後、百年後、いや千年後を見据えて考えた時に、やはり船場は「職住接近」で「ハイセンスで美しい街並み」で「高感度な人々が集う」という街でなければならないと私は確信しています。

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